『 人生 定年後も 明るく輝いていたい 』
   BLS主宰   中川 久枝

岡山に生まれ育った。学校を出て三井銀行に就職した(現三井住友銀行)。25歳で結婚により名古屋で生活するようになった。
一男一女の母親になり、子育ても少し落ちついた頃、ご主人が創業し経営されるソフトウエア開発の株式会社システムアシスタンスで総務の仕事をするようになり、これまでずーっと続けてきた。

 仕事で社内教育担当のかたわら、各種人材育成セミナー、インストラクター養成講座などみずからも勉強した。数年のちから社外の企業に対する講師活動も開始。幅広い仕事の中で 中川さんの得意分野は新入社員研修、フォローアップ研修、中堅社員研修、自己啓発セミナー、管理者研修などである。

 中川さんの研修は座学の講義が中心ばかりでなく、グループ討議やビデオ、ゲームなどを使うものも加えて、受講生がただ受身だけではなく、自主的に参加し易いように工夫している。


 

 中川さんの研修を受けたことがきっかけになり、そのひとの働くことへの意欲が高まったとか、ビジネスマナーが身に付き人間関係が良くなり、まわりのモチベーションが上がったと聞くとうれしい。これが中川さんの自身の仕事をする生き甲斐になるそうだ
長い間には、時代の移り変わりや景気の浮き沈みなど、そとの要因も重なって、事業として、経営者の妻としても山あり谷ありを乗り越えてきた。自分も苦労したおかげで、手をひろげ深めてきた人材派遣業の仕事も続けて行けるようになった。

人の一生にかかわれることとかのお手伝いができるのは、喜びであるが、指導者として自分も常に学んでいなければならない。見かけは静かで落ちついた人であるが、秘めた努力家でもある。

 休日にお会いする時には飾らない普段着で、どこにでもいるおばさん、と言ったら失礼かな。仕事姿はスタイルも良く、ピシ−ッとしたスーツ姿のキャリアウーマン。さすがに、キラッと輝いてます。

            子育て、家事、仕事と忙しい生活に身を置いてきた。趣味を持つ余裕も無い
            まま今年は還暦を迎える。
            この辺りで自分らしい生き方もしてみたくなった。

 これまで会社は名古屋、住まいは各務原市。毎日往復するだけの生活で、
ご近所や地域の人たちとはほとんど触れ合うことなく きてしまった。
息子も親の会社の仕事を継ぐように一緒に仕事をしているこのごろで、
自分のしてきた総務の仕事から解放してもらうことにした。
それでも今はまだ元気なので、自分のためにも講師の仕事は続けていきたい。
いままで自分がお世話になってきた、たくさんの方々やまわりの社会に
少しでも恩返しを出来ればと考えている。


今後はすこし時間があるようになるので、好きな
コーラスもまた始めたいし、友だちとおしゃべりも
出来る時間を持ちたい。
子育ての頃親しくしていた人たちとも
再び交流したい。
楽しみな韓国ドラマを観る時間ももちたい。
すこしづつできるところから実践して、
夢が現実になる日常に変わったら幸せです、と。

今、最大の感心事は6月に初孫が生まれること。 



(2007.03 紹介 C/T)








  『”おいしい”が一番の生きがい 』
 ガーデンカフェギャラリー「兼山窯」
   主宰  丹羽 美代子

「ガーデンカフェ ギャラリーかねやま」を訪れた人は、お庭の花あしらいと室内の上品なしつらいに気がつかれたことと思う。このギャラリーの女主人・丹羽美代子さんを紹介します。

若い頃から器と花が大好きであった。
 学校を出て、会社勤めをした後、陶芸作家と結婚。子育てをしながら、土岐市で花屋(ポプリ)を経営していた。同時に花の教室も開き、結婚式場の活け込みやブーケ作りもしていた。頼まれればガーデンデザインなどもしたりと 幅広く活躍する。

 そのかたわら自分を より磨くことも怠らずで、食べることにも興味があり、煎茶教室の家元堀尾先生について、煎茶道と普茶料理を学び、靖風流「美心」の免許皆伝となった。(普茶料理とは 黄檗宗の寺で調えられる中国風の精進料理をいう)


 



可児市兼山町には鎌倉時代から甕(カメ)を焼いていた窯があった。永い間ずーっと途絶えていたが、昭和46年、金山城址のある古城山の山麓の兼山窯を譲り受け、兼山焼の復興をした人が、美代子さんのご主人である。

 いまから3年前に土岐市の花屋を閉めて、ご主人の工房に移り活動するようになった。この地に本格的なギャラリーカフェを経営しながら、フラワーアレンジメント、園芸教室と普茶料理の教室を開いた。

 日本フラワーデザイナー協会本部講師や、岐阜県寄せ植え華道協会理事などの仕事も多い。とくに季節の花盛りの春や秋は、あちこちへ走り回っているほど忙しい。


2006年は「ドームやきものワールド」のテーブルコーデイネートコンテストに、「ふだん着で楽しむクリスマス」と題して出展し事前審査で優秀作品に選ばれた。
ドイツ風に可愛くコーデイネーとされた作品で、見る人にすてきなひとときを夢見させていただいた。
第15回「花の都ぎふ」花ざかりコンクール店舗部門では金賞の栄誉に輝いた。日頃の努力とセンスの良さが認められたことと思う。


お客さまのからの要望に応えて2006年6月からは、予約をすればギャラリーカフェで普茶料理もいただけるようになった。
普茶は季節の野菜を主として、そのそれぞれの持ち味を失わないように、手間ひまかけて調理してある。
皿数も一汁七菜、ニ汁九菜など素朴な中にも豪華に感じる。ご主人作のすてきな器を使う。
テーブルコーデイネートされて、いただく料理はとてもおいしく、みなさん お口がほころびます。

 美代子さんも、「おいしい」という声が聞かれると、「ああ よかった」と。「喜んでいただくのが今の一番の生きがいです」と・・。

将来の夢は? 今後どのように生きてみたいですか、とたずねてみた。

「残された人生は3分のTぐらいかな? 
忙し過ぎた自分に、これからはもう少しスローな時を過ごしたい。
身体を健康にし、日本中の美しい所へ行き、味わいのある地方のおいしいものを食べ歩きたい。
静かな時の中で老後を過ごすのかな。」今日も花に囲まれ、いきいきと働いておられた。


(2007・01  紹介 C/T)







  『「陶」と「古布」に夢中 』
          三 輪 幸 子

 個性的な趣味人。本人は自分のことを よい風に言えば 大人、本当はわがままで気の向くままに生きているだけの女性(ひと)、と評される。

 若い頃は海外の物産、特に東南アジア系の雑貨をあつかう店を経営していた。そのころから いつか自分の手で作った器で食事をすることにあこがれていた。子育てが終わるのを待って 陶芸教室に通い出した。

 あれから20年。好きなことだから 夜中の窯焚きも みずから買って出て手伝った。特に釉薬を掛けないで土そのものの色を生かせる「焼き締め」に魅せられた。焼き物を愉しむには 作陶はもとより 歴史なども学んだり、自分独自の釉薬を考え出したり、さらに美術館・ギャラリー巡りなどと やりたいことがいっぱいある。時々「教室を開いて教えて欲しい」と言われるが、時間を拘束されるのが気詰まりだし、その気は無いとか。いまは自分を楽しませることで 精一杯。





夫はサラリーマン。趣味の音楽でロックバンドに所属している。土、日曜日はコンサートであちこちにでかけるので、一緒に行く。空いている時間に 魚釣りをしたり、散策をしたりと二人で過ごす。
共遊びがとても上手である。

 三輪さんの日常着は どこか一点 大正か明治の時代の古布をあしらい、この世界に一枚しか無いものを着ている。Tシャツに古布でトリミングをしたり、小さなパッチワークを入れたりと、さりげなく「個」が光っている。伝統的なきものの華やかな 懐かしい美しさは いつも意識して居たいという。

 今は 陶と古布を使って アクセサリーやバッグを作るのに夢中だ。
自作のバッグを下げて ギャラリーに出掛けたら、店のご主人から、ぜひ作品を置いてほしいと言われ、
現在ではそこに行けば、三輪さんの作品が購入できる。
自分の作品を買ってもらうということによって、より真剣に作品作りができるので、よいこともある。







いまは都会に住んでいる(名古屋駅近く)ので、
 六十過ぎたら 川や滝のある田舎に住むのが夢である。
  母の郷である熊野の山中、ぬくとまりという地で
   自然と遊んで生活
(くら)すのもいいかなと
考えているそうだ。
   今のいそがしい生活をしている三輪さんからは
想像できませんが・・。
 
いつもにこやかでこころ優しい女性。
また、その反面、相手が都合付かないときは、
どこまでもひとりで行く。
喫茶店や食堂もひとりで はいれる。
孤独も楽しめる女性でもある。 








         (2006・11 紹介 C/T)











  『パッチワークキルトで社会貢献』
 柊パッチワーク教室 主宰 堀部 房子

堀部さんは 針仕事が大好き。ひと針ひと針思いを込めて縫い進めていくと心が落ち着いて楽しい気持ちにひたれる。

 はじめて友人に連れられて通ったパッチワーク教室で、小さな布切れをつなぎあわせていくと タペストリーや、ベットカバーなどの大きな作品になることに魅せられていった。その後キルトスクール名古屋にて講師の資格認定を受け、また何年か後に文部科学省許可・日本余暇文化キルトインストラクターの資格も得られた。長く続けているうちに作品も多くできあがり、横浜キルトウイーク、神戸キルトウイークなどで賞もいくつかいただけるようになられた。


そのうちパッチワークのキルト作りを通して社会参加し、世の中に役立つ活動ができないかと思うようになった。


 そんなときの2002年2月キルト愛好家が集まって「NPO法人QUILT21」が愛知県東郷町を拠点に立ち上げる話が進み、理事の一人として加わり
その年7月より本格的に活躍が始まった。
現在の会員は158名。

この地区では 犬山市東古券の余遊亭を会場にして
毎月 各務原、犬山、江南からの会員によってパッチワーク作りをされている。具体的な活動として、好きなかわいい柄の布で21cm四方のパターンにして持ち寄り、集まったパターンをつなぎベビーキルトに仕上げる。キルトのほかにもパターンを利用して作ったバッグや巾着も作成することがある。


いままでに全国の仲間たちとアフガニスタンの難民キャンプの子どもたちに900人分の通学バッグを寄付したり、新潟県中越地震の被災地や仮設住宅の子どもたちにベビーキルトを送ったりしている。

 昨年は犬山のフロイデまつりにも参加。巾着をチャリテイ販売し、キルト体験コーナーなども設けて、地域の人たちにも喜んでもらった。今年のフロイデまつりにも参加を検討してみようと思っているとか。

各務原の風庵のギャラリーでは教室展も開いている。
ここではミニ講習会の収益金から車椅子を購入し、
各務原市に寄贈している


堀部さんは、ひとりではできないけれど、みんなの力で手作りし、少しは社会の役に立てばうれしい。パッチワークキルトは布と針と糸さえあれば、誰にでもできる手芸として世界中の女性に愛されている。
「好きな仕事で 災害・病気などで苦しむ子どもたちに少しでも貢献できれば幸せ」と話される。
多くの仲間に囲まれ、色とりどりの布を使ってのベビーキルト制作はとっても愉しいので、「毎月最終木曜日の余遊亭の例会は ご見学大歓迎。多くのベビーキルトを作って多くの子どもたち届けたいので、はじめての人も いくらかの経験のある方の参加も得て仲間を増やしていきたい」会員を募集中。

手仕事によるキルトのほかに 19世紀以降の家庭用ミシンの普及と共にミシンで縫うキルトも出現した。
堀部さんも手縫いとミシン縫いの両方をされている。ことし6月に岐阜県博物館での「キルトの魅力:アンテイ−クミシンとのコラボ展」にも参加。
ここでの展示作品のひとつ「名古屋城障壁画竹林豹虎図」は、QUILT21のメンバー60名の共同作業による5万ピースのモザイクキルトを8ヶ月がかりで完成させたもの。

デザインと色を決めて布探しに走りまわるときは、悩みでもあり、いちばんの楽しみでもあるようだ。静かな作業というイメージのキルト作りも なかなか体力の要るお仕事だと、堀部さんを見ていて感じた。アメリカ、オースラリアなど海外のパッチワーク展示を観に行くのも喜びだとか。

ルトも極めるとなかなか奥の深いものですね。
どうぞ今後もキルトを通して社会活動をされますように応援しています。


2006.9. 聞き手・C.T.)









      シャンソン歌手
      柴山 明希

子育て後、ギャラリーの企画・運営をする仕事を
していた。

 シャンソン歌手・青山桂子氏に出会ったことで師事し、歌の道にのめりこんでいった。
1999年アマチュアシャンソンコンクールにおいて奨励賞を受賞した。2000年名古屋吹上のカフェ・コンセール・エルムでエルムシスターズとしてデビューすることができた。はじめのころは収入も少なく、カフェを手伝いながら前座で歌わせてもらった。

シャンソンが一番得意だが、カンツォーネ、タンゴにも取り組んでいき、レパートリーにする。四十代に入ってから、歌手になるという夢を叶えるまでは、語りつくせぬほどの苦労もあったが、好きなことなのであきらめないで努力をしてきた。わずかづつではあったが繰り返してきたことで今の自分がある。

十年近く経て、人は人なりに、自分は少し遅い出発であったが自分が本当にやりたいことを目指して進んできてよかったと思える。


シャンソンは人間のいいところもみにくい
ところも隠さず歌え、自分の心情を託せる
ところが魅力的だとおっしゃる。

タンゴも歌う。

激しいリズムだが詩はやさしく愛にあふれて
いるそうだ。

あこがれのシャンソン歌手はサルバトーレ、
アダモ、日本ではクミコとか。

 最近はカフェ・コンセール・エルムで歌う
ことのほかに、岐阜で川原町屋ライブを開催
している。

川原町屋とは明治時代長良川沿いの、かって
は紙問屋街だった町家が、和雑貨と喫茶が
楽しめる懐かしい空間に生まれ変わった。

そんな素敵なお店を舞台に「川原町屋」ライブ
を開きシャンソンの名曲を楽しんでもらう。

歌い手のほうも人の生き方がオーラのように
染み出て、すぐ近くで聞いている方にひとり
ひとりうかがって語りかけるように歌えるので、
最高に気分が良いそうだ。

ワシントンホテルにて

レセプションパーティ(パリにて)
ジャックアンドベティコンサート

歌手になって10年。今は仕事もプライベートな
生活も充実してきた。

時間があればギャラリーをめぐり、美しい工芸品を
ながめ楽しむゆとりもある。

自分も人に夢を与える仕事なので、美しいものにふれることは大切だと思っておられるようだ。

 これからは 高齢者の施設で歌うボランティアを続け
ていきたいそうだ。
歌は認知症を治す力があるといわれる。

高齢の方のお世話をすることによって、自分にも他人に
も優しくなれたし、生きることの意味がすこしづつわか
りかけてきた、とも。

キラキラと輝いたままをささげて欲しい。



                   (2006.7紹介 C/T)








18 『看護と共に
      橋場 憲子

昭和20年、終戦で日本が混沌としていた時期に
富山県にて生を受けました。家は決して裕福とは
言えませんでしたが、山紫水明の地でのびのびと
した幼少期を過ごしました。
農家の三男だった父は細々とした商いで、母と共
に、私たち3人の兄妹を育ててくれました。
当時父は、『これからの日本は民主主義の時代を
迎えるから』と、家庭内のルールは家族5人で話
し合って決めようと言い出し、毎週一回、家族会
議なるものを開き、私たち兄妹にも自らの意見を
言わせました。
そんな父でしたから、私の進路選択にあたっても、
これからは女性も職業を持って自立していく時代
になるからと資格をとるように勧めました。
大学を受験するほど家計に余裕がないことは子供
心に分かっていましたので、学費のかからないそ
して資格がとれることを選択肢として看護学校に
進むことにしました。
今から振り返ってみると、看護への高邁な精神に
裏打ちされ、看護の道に進んだわけでなく、生活
の糧とせんが為の職業選択だったのです。



看護師(当時看護婦)の免許を取得するや、ひたすら職務に邁進し、同時に結婚、出産、
育児という山あり谷ありの時期を、夫や子供達の協力を得ながら乗り越えてきました。
そして臨床現場では、仲間や後輩と共に悩み議論し、時には上司と後輩との意見調整に苦
慮することもあり、また時には医師と激しく意見交換して、患者個々のニーズに合った看
護ケアを探求しつづけていました。
そのうち自分自身、看護職が天職かも知れないと思えるようになっていました。


医療における日進月歩と時を同じくして、看護界にも、色々な波が押し寄せ、従来の
看護や看護の周辺のものの考え方が見直され、今から思えば少々翻弄させられた感もあ
りますが、「看護記録はどうあればいいのか」「看護診断を・・・」「
24時間勤務にお
ける申し送りのあり方」「勤務体制の見直し」「看護の基準化」「電子カルテ化」「看
護倫理について」と枚挙に暇がありません。

そんな中で一貫して取り組まねばならなかったことは、人材育成だったと思います。
看護は人と人の関わりの中に創り出される看護サービスですから、その看護を創り出す
人の育成は、いつの時代にあっても欠くことの出来ない課題であり、自分が所属する組
織内だけの問題でなく、地域全体、ひいては県内外の看護職が連携を取り、保健・医療
・福祉と切れ間のないサービス提供のために欠くことが出来ないことにも気づき始めて
いました。
また人材の育成は一朝一夕に出来るものではありません。根気よく、時間をかけて取り
組む必要がありました。





睡眠時間を惜しみ、次々湧き上がる課題に
取り組んだことも、今から思えば看護職とし
て一番面白く、楽しい、充実した時期だった
ように思います。
そして振り返ってみると
37年が経過し定年退
職を迎えていたと言うのが実感です。
そして退職二ヶ月後の昨年秋には、叙勲の栄
誉に浴する事が出来、夫婦で皇居へ上がり、
おことばを頂き、人生の第一幕をなんとか周
りの人々に支えられ無事下ろすことができた
と言った感慨深い心境でした。



退職後まだ余力があるとしたら何がしたいのか、また、何をしなければならないか、
自問自答の結果、出来ることなら県内の看護職の教育、とりわけ、多くの
看護職のリーダーである看護管理者の教育に関わりたいと
思いが固まったところ、折りもおり縁あって
社団法人岐阜県看護協会に昨年末から
籍を置くことになりました。

人生第二幕の幕開けとして、思いが叶って看護管理者の研修企画を
担当することになりました。
今秋の開講を前に、慣れないながら、研修会準備に余念がありません。
全国から選りすぐりの講師陣を動員し魅力ある研修会に
したいと今は張り切って取り組んでいます。


                          2006.05.07





c
bP7 『可児おやこ劇場
      事務局長 国枝のり子


国枝のり子さんの子どもが幼いころ、「みのかもこども劇場」
に出合った。

1985年、国枝さんは子どもたちに“夢と勇気と希望を”を
合い言葉に、仲間とともに自分の住む地に「可児おやこ劇場」
を立ち上げた。
良質な生(なま)の舞台を子どもたち観てもらいたい、お芝居や
音楽という栄養で子育てをしたい、という願いがある。
そのころおやこ劇場※は全国に750ヶ所もあり、さかんに活動
されていた。
まだ地元可児には劇場が無く、年に4回よその地区まで子供たちを
連れて出かける。
そのため送迎の手段や資金面で、国枝さんには事務局長としての
苦労もあった。

可児おやこ劇場は会員制。構成会員数は多い時で931名。
現在は子どもの数も減少したが、地元にも劇場用の立派な施設ができ、全国で活躍している
素晴らしい力のある人たちとのつながりで、子どもたちが直かに触れ合えるので、大きな喜び
となっている。
国枝さんは「わたしは子どもと遊ぶことしかできないよ」と言われるが、小さな幼児から
大人まで皆んなから「くにちゃん」と呼ばれ慕われている。





2006年2月26日(日曜日)に可児市文化創造センターで、第2回「みんなで歌おうコンサート」が開かれた。可児おやこ劇場が主催で、可児市教育委員会・可児市文化団体ネットワークの後援を得た。このコンサートの第二部はおやこ劇場おなじみの(ジャズ)ピアニスト河野康弘さんのピアノコンサートであった。河野さんはチャリティコンサートや募金活動で、壊れたピアノを修復再生し、世界各地へ贈り音楽に親しんでもらう活動をしておられる。国枝さんは、河野さんの音楽の楽しさや素晴らしい演奏に感動し、また自然を大切にする活動に共感し、数年来の協力をしている。おかげで「♪可児おやこ劇場の歌」「♪きみの町ぼくの町ふるさと」など河野さん作曲のうたができあがって、ひろくみんなで歌われるようになった。



 「くにちゃん」はハーモニカが得意である。と言っても、子どものころに学校で少しやったぐらいだが、浜松へ行った時ふと買ったハーモニカに夢中になった。いまではどこへでかけるときにも持ち歩き、友だちから野菜をもらったときなどに、ハーモニカを吹いてお返しの代わり、とにこにこしている。今や河野さんとジョイントコンサートができるほどに腕前が上がった。河野さんのCD「♪きみの町ぼくの町ふるさと」発売キャンペーンでも演奏した。「ハーモニカおばさんとピアノ河野さんの出前コンサート」としてデビューも夢ではない、かな???

可児おやこ劇場とハーモニカにもう一つ、「くにちゃん」の特技。「可児市文芸祭」の募集に応募して入選した。
立派な小説家でもある。「くにちゃん」の隠れた才能とお見受けした。





今後の夢は、子どもとお年寄りが仲良くできる空間が欲しい。
自宅を改築してつくればよいのだが、自宅は高台に在り、階段もあるのでただいま考慮中。
“いろんな事が大変な世の中で、こうやって自分や人のためにできること、
ひとつでもたくさん紡いでいけたら、
きっと楽しく豊かな人生が送れるかな?”とおっしゃる。

「くにちゃん」は 子どもたちの笑顔を見ているだけで 
きらきらと輝いていられる人なのだ。
(紹介 C/T)






bP6 『マルチばーば?
      武 内  智 与 子



せとものの町瀬戸に生まれ育った。

子供たちが幼いころに始めて15年間ほど、親子で参加できる
ヒッポファミリークラブ(言語交流研究所)で、言語の習得や
ホームステイ交流の活動をしていた。

インド、アメリカ、オーストリア、タイ、中国、イギリス、韓国、
さらにイタリア、スペイン、メキシコ、トルコなどさまざまな国の
10歳から60歳代までホームステイを引き受けていた。

そんな時期(23年前)に韓国女性のホームステイ引き受けが
きっかけで、韓
(とつ)の国にすっかり魅せられた。
それ以来韓国の文化、ことば、食べ物・・何でもを知りたくなった。

表題のネーミングもさまざまな趣味を持ち、いろんなことにチャレンジ
することから「マルチばーば」
とのニックネームがあるそうだ。

50歳目前で友だちに誘われ陶芸を始めた。
もともと生まれた環境から陶芸は身近にあり、家業の関係から陶芸作家の知人も多く興味があったが、
思いがけないもうひとつの趣味との出会いとなった。とくにロクロ成形が好きで花入れが得意という。
あこがれは高麗時代の青磁、白磁の大壺である。

2年に1度くらいの訪韓の旅では、やきものの町、利川(イッチョン)の陶芸村にもたびたび行き、高い美意識に
触れるのが極上の楽しみ。この地は米もおいしく、石の鍋で炊くご飯は絶品で強くおすすめとか。










親友と呼ぶほど仲良しになった韓国女性との家族ぐるみの
交流は、毎年のように互いに行ったり来たりとつづいている。
このごろではE-mailでのやりとりも待ち遠しい。
まだまだ片言だがハングルの読み書きができ話しが
できるようになった今は、覚えたことばがすぐ使えて
よろこびもひとしおとか。
韓国の話しをする時はまさに輝いていてうれしそう。










はじめて韓国を見てから20年余、この国の発展が
「韓江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれるのが、素人の自分にも
気付くほどの変化が見られるという。
貸間貸家でふた家族が一つ屋根に住まう家が無くなり、
街は清潔になり、人びとの着ているものが変わった。
通りすがりの観光だけでは判かりにくいことまで知っている
眼はさすがである。







2005年のEXPO愛・地球博では、ボランティアにも参加したほか、いままで自分が訪れた国や、
自宅でお世話をした人たちの国々の外国館を観るために、せっせと通って楽しんだ。

小学生のころから作文が得意科目。
時どき思いついては随想文を新聞、雑誌に投稿し、
数多く掲載されている。

今年で65歳。
現在は健康で陶芸に、NPO(市民活動支援センター)機関紙の原稿書きボランテイア、
母親の介護と日々追われるように忙しくも充実した日々を過ごしている。
孫娘に夢はと聞かれると、
小説を書いて「芥川賞をもらうこと」と答えるそうだ。



                           紹介者H/N






15 『絞り・染物教室講師
      加 藤  龍 音

ある集まりでうすいピンクの有松絞りのコートを着た女性(ヒト)が印象的でした。
その人が加藤龍音さんとの出会いでした。

 加藤さんは会社勤めをしていたが、退職後、何をしようかなと思っているとき、有松絞りに魅せられた。
(絞りは、絵刷りをした生地を縫って絞ったものを染め上げる)。
絞美苑工房を訪ね、榊原あき子先生について習い始めた。

絞りは、京都では20通りくらいだが、有松・鳴海では75通りを超えるくらいの多様な技法を駆使して絞りと染めを行なっている。趣味では十年以上経った今も駈け出し。一人前には遠く、まだまだ学ぶべきことばかり、と控え目にお話される。手作業の染めは、経験に加えて勘だとかコツが大きな比重を占める世界でもある。

草木染めも本を頼りに自分で試していた。行き詰まっては、自分ひとりで力の限界を感じてはいたときに、池谷昭三さんという染色作家と出会った。加藤さんの自宅は、幸いにも犬山市の郊外で自然豊かである。近所の山、野原、河原にあって、殖え過ぎた帰化植物や雑草(タンポポ、ヨモギ、くずの葉、月見草)を摘み集め、次つぎに染めて楽しんだ。

 草木で染めた色はおだやかで、見る人の気持ちをいやしてくれる。
自然がつくりだす色彩に感謝しながら、
自分流のやり方で布を染める。

3年前、さら・さくら(犬山市民健康館)にさくら工房ができた。
自分でもここでなら、少しはお手伝いすることが
できるかと思い名乗り出て、絞り・染物教室で
講座を受け持つことができた。

 同じころさらに自分ももっと勉強したくて、絞り工業組合主催専門課程に参加し、
巻き上げ絞りと折り縫い絞りを習った。

 初めのうちは自分流の悪いくせを直すのに苦労した、と伺った。
ここでやっと自分の知りたいと思っていることがわかりつつある。
私の理想とする絞りと染めに少しでも
近づけるようにがんばっている。


今年の夏には愛・地球博市民パビリオン「草の文化折り紙プロジェクト」のリーダーとしても活躍された。秋には「さくら工房の講座受講生作品展」を控えて、日々いそがしい。夢は近い将来に、畑でいま育てている綿を紡いで糸にし、織りあげて染色するまで全部を自らの手で仕上げてみたいとのこと。

一人息子は独立し、いまは夫と二人の静かな生活(くらし)だが、加藤さん自身は毎日エネルギッシュに駆け回っているようにお見受けする。(紹介者 C/T)






14 『フローラルサロン  
  有限会社 アクアメッセ
      代表取締役 田中 曄子

プロフィール紹介
  ロイヤルフラワーアレンジメントインストラクター
  フランスフローラルアート協会認定 ディレクター
  カットフラワーアドバイザー
  Professional Adviser of Herb
  華道  専正池坊(華洋)
  茶道  裏千家(宗洋)
  専正池坊 岐阜県連合会 岐阜支部理事
  トータルライフコーディネーター
その他
  調理師免許
  アマチュア無線  
  ファイナンシャルプランナー
  リスクコンサルタント・・・・・

プロフィールのとおりとてもたくさんの資格を取得し、趣味の幅も広くいろんなものに広く浅くチャレンジする。
現在は自宅教室を中心に数ヶ所の教室でフラワーアレンジメント等の講座を開講している。

昭和23年岐阜市に生まれる。
南山大学経営学部を卒業後、会計事務所に10年間勤務する。
父が茶華道を教えていたこともあり、自然にこの道に入っていた。そのころは茶道の方に興味があった。

 結婚後すぐに生け花とお茶を教え始めるが中断。平成3年に夫が癌のため他界。
その後、本格的に教授活動を再開する。






















教室では集まっていただいた生徒さんがレッスンだけで
なくサロンとして何の気兼ねも無く日常を忘れ、楽しい時
間をすごしてもらうような空間作りを心がけている。

 ロイヤルフラワーアレンジメントコースが主になります
が英国の伝統的なフラワーデザインと専正池坊の技術
をあわせ持った格調高い英国スタイルの生け花でテーブ
ルマナーやコーディネート等トータルで学んでいただくコ
ースです。

今秋からはフランスフローラルアートのコースも開講。
昨年、フランスフローラルアート協会(代表:アンリ・ムリエ)
の認定デザイナー(ディレクター)に選考され、今後は
フランス花文化の交流にも努めることとなる。

問合せ先
 TEL:058-234-8524
 FAX:058-234-3004
 Email:yoyo@msh.biglobe.ne.jp



現状に満足するのではなく、日々勉強し、研究して
レベルアップをしていきたいという思いが強いので向上心を忘れず、新しいことに
チャレンジしていろいろなことを経験していきたいと思う。
そして何よりも
私自身の人生をより豊かにしてくれる周りの方々や生徒さんたちと
笑い、語り合って過ごす、楽しく有意義な時間を
大切にしていきたいと思います。







13 『森の中で、隠れ家レストラン』
  レストラン経営
          水野 もと子

瑞浪市日吉町の山の中に、予約制レストラン「ウイークエンドハウス」がある。

 扉を開けて中に入ると、ここでしか感じることのできない、水野家の個性的なインテリア空間がひろがってくる。

 21年前まで、愛知県小牧市で自動車板金塗装業と中古車販売業を営んでいたが、同居するため親の住む瑞浪市に移り住むことになった。

山林を切り拓いたアメリカの山小屋風の自宅を訪ねて来てくれる友人たちが、ここに来ると気分が良い、癒されると言う。でも、この近くにはものを買う店もなく、食べる店も無い。手料理を作って食べてもらっているうちに、無料だと何度もたずねてこれないし、手土産を買う気遣いもする。いっそ有料にしてレストラン風にしたらどうか、と言われるようになった。また若い頃から「自分の店を持つ」のが夢でもあった。
今でこそ、隠れ家レストランが流行しているが、当時は参考にするモデルもないし、料理も好きなだけで専門的に習ったこともない。

試行錯誤の連続で、どうにかオープンすることになった。以前から趣味で作っていた「手作りベーコン」を
使って、ミートローフ、マフインが得意料理だった。

 始めてみると、もの珍しさもあり、クチコミでお客さまがどんどんひろがっていった。
その頃は両親の面倒も看るので、土、日曜日にだけ営業していた。
 9年目を迎えた現在は、水、木、金曜日が創作料理の予約食事会とテイ―ルーム。
土、日曜日、祝日は一品料理とテイ―ルームでやっている。

お客さまは、店の中心である水野さんと同じ年代の人たちが一番多い。
 広い庭(1300坪)の管理も兼ねて、一年に一度(毎年5月)ウイークエンドフエステイバル、仲間たちの手づくり作品展示即売会を開く。
服、陶器、ケーキ、野菜、キリム、クラフトなど。この山の中の一軒屋に何百人ものひとが集まって、ごったがえすほどの好評だこと! 
今どきは中高年夫妻が、このような店を持ちたいという夢をもった人が多いようで、見学者が絶えない。
いつか「やっと店が持てました」と連絡されると、とてもうれしい、とか。

 二人の娘たちも嫁に行き、ご主人は自営業からサラリーマンになり、土、日曜日は手伝いをされている。
奥様の夢のよき理解者であったからこそ、ウイークエンドハウスはいつまでもにぎやかに続いてきた。

 まだ50歳台半ば。水野さんの人脈の多さと人あたりの良さが、多くの人、ひと、人を呼んでくるのだろう。
リピーターも多いので、料理に工夫を重ねる努力を怠らず、日々、生き生きと動きまわり、
楽しんで生活する女性
(ひと)です。

                               (紹介者 C/T)






12 『保険は大切な財産です。最適な保険
      を最高のサービスでお届けします。』
 有限会社 やまぐち
  代表取締役 山口 京子



昭和23年1月22日各務原市那加に生まれる。
3年ほどOLを経験後結婚、父母・夫・子供二人に恵まれ平穏な日々を送っていた。
結婚10年目の昭和56年の春、突然夫がすい臓癌の告知を受ける。あっという間に
同年夏、薬石効果はなく他界する。

損害保険の資格を持っていたので昭和57年3月住友海上の研修生として2年間頑張る。
昭和59年3月独立し、平成8年には専用の事務所も構えスタッフも雇用して特級代理店
の認定も受ける。
平成11年1月有限会社やまぐちを設立し法人組織とする。
保険会社の全国の役員も引き受け東奔西走の日々を送る。

平成16年1月長男が地元の金融機関を辞め、後継者として三井住友海上の研修を
受け平成17年2月(有)やまぐちに入社する。
20数年間社長と数名のスタッフで頑張ってきた(有)やまぐちを継承するに当たって
「代理店の存在意義」を常に考え行動していきたいと頼もしく語る2世です。
平成17年2月には念願の新事務所も完成し、気持ちを新たにスタートしました。

今、想う事・・・・

一番嬉しいことは、長女が6年間(出産するまで)内務事務を手伝ってくれたことと長男が8年間の銀行勤務を
辞めて後継者となることを決心してくれたことです。

夫が亡くなった後、母に家庭を守って貰いながら保険の代理店業をはじめました。
平日は家族そろって夕食は出来ないし、参観日も少し覗くだけ・・・・
子供達には本当に淋しい思いをさせてきたなア・・・という負い目がいっぱいありましたが成人して一緒に仕事を
することになり、「私の後姿を見てくれていたんだ!あーあ、良かった!!」とホッと胸をなでおろしています。
23年間、お客様・仲間・保険会社の社員さんにも恵まれて仕事をさせてもらうことができました。
本当に人と人との出会いは財産ですね。
これからも息子、スタッフのみんなと力を合わせて、全力で「お客様に最適な保険を最高のサービスでお届け
します。」 をモットーに頑張りたいと思います。








11『書道を通じて元気を!
 書道家  野澤 芳穂(ほうすい)
      (野澤 晴子)  

小学校の長女と一緒に通って、習い始めたのが、書道との出合いでした。

結婚して間もなく中耳炎の手術をした。顔にしびれが
残るという後遺症が残り、できるだけ外出を控え、家で
できる書道にのめりこんでいった。

最初は中国の呉昌顕と王鐸の行書を学び、つづいて
六朝の楷書を書くようになった。

昭和49年、中日展に初出品、初入選。
「跳び上がるほどうれしかった。」

それ以来、中日展、毎日展、読売展、日本の女流展、謙慎展などにつぎつぎと入選し、実力を発揮される。

書道に出合い10年たったころ、師から開塾をすすめられた。

初入選以来、中日展(二科賞、特選、準大賞)、毎日展、読売展(特選)、日本の女流展(中日新聞社賞)、謙慎展(秀逸、謙慎賞)など 毎年つぎつぎと賞をいただくことになった。

中日展は無鑑査から委嘱へ、二科審査員へ。読売展は会友から評議員へ。日本の女流展も中堅へ、と周囲の期待も高まっている。

3人の子育てに加え、64才で倒れた義母の介護(14年間)に明け暮れる中で書道塾の先生と、活動的に走り回ってきた。

子どもたちも独立し、いまは夫との静かな生活に戻った。

書のほうは、教室2ヶ所で10代から60代の人たちに、相変わらず教えている。趣味の日本画は素人離れの腕前。このほか陶芸、ガーデニング、パソコン、食べ歩き、と好奇心も旺盛で、「美」へのこだわりは強い。

毎日を元気に楽しんですごしておられる。
自分の病気のこと、義母の介護の長い苦労は、いまは全然感じられない。

彼女が居ると、周囲は笑いが絶えない華やかな存在。

自分の専門の領域である書は「力強い線を出すように心がけて」
けいこに励み、複数の趣味(楽しみ)は幅広い視野を保つため、
長くつづけられたら・・と語られた。








10『地域に根付く活動を!
市民活動グループ「まちかどの泉」
   代表 : 松本 里美

犬山市で市民活動グループ「まちかどの泉」を率いる運営委員長である。
コミュニティレストラン(Chanty・チャンテイ)&フェアトレードショップ、エコ交流ステーション、国際理解講座、民族楽器コンサートのプロデュースなど、幅広い層の市民を結集して 市民に楽しんでもらえるように実績を積んでおられる。

2002年2月、犬山城下町商店街、空き店舗活用助成の第一号店として、針綱神社の前に フェアトレード喫茶軽食の店として“チャンテイ“をオープンした。

ここでは若い人や仲間と、手作りコンサート、国際交流事業のイベント参加、料理作りにと、てんてこ舞いの日々でした。 観光客や市民の交流との場となり、マスコミにも紹介されるようになりました。 でも店の運営は楽ではないというのが本音。



2004年1月、もう少し広い活動の場として 犬山駅に近い中山町に活動の場を移すことになった。チャンティは日替わりシェフのコミュニティレストランとして 新しく生まれた。 だれもが自分の色で輝ける場をつくる。 自発性と自己責任で運営する相互支援システム地域の人が安心して集える場所を提供する新しい型の飲食店です。 メニューも和食洋食中華とバラエティーに富んでいる

このレストランを訪れた人は、本日の献立は どんなめずらしい食材で、どのようなお料理が出てくるか 楽しみである。

 この場所でもレストラン、フェアトレードショップ、民族楽器コンサートのプロデュース、エコ交流ステーション、国際理解講座などさまざまな活動がされている。



10年近く前三人の子どもと一緒に活動していたヒッポファミリークラブ(言語交流研究所)で タイの国にホームステイした。 スティ先でのいろいろな体験と ヒッポの日常の活動から得たものが 今の原動力となっている。

松本さんの夢は、日替わりシェフのコミュニティレストランというワン・ディ・システムを、多地域に広げ いろいろな価値観にもとづいた相互支援のネットワークを全国規模で構築することだと言う。





こんなに多くのことをして目の廻る忙しさの中で、持ち前の 
ふんわかとした穏やかな人柄と明るさで お客さまと接して
おられるのはさすがである。

来年は五十代。女盛り、働き盛り。

新年はチャンティ開店一周年企画として 河野康弘さんの出前コンサートで幕開けです。

今後もつぎつぎと新しい事を生み出していかれることと思う。







9『女性の能力活用を目指して
(株) ベル 代表取締役会長 森田槇子

各分野で女性の活躍が目覚ましい時代になりました。働く女性たちの意識は非常に高く、男性以上
に能力を発揮して、生き生きと輝いている女性を見ることが多い今日
この頃です。

男も女もない時代に突入し、女性であっても企業の中で能力の高い人、
センスのある人がその立場にたって能力を発揮し、むしろ男性以上に
頑張っています。

私の会社にも現在女性の登録者が5,000名以上になり、その中でも
キャリアや資格を活かし必要に応じて自分のライフワークとして働く
女性が増えています。
自分の意見や考え方をはっきりと主張して、生きていくスタイルを
大切にする女性も多くなっています。

私自身も会社を経営していく中で、男性中心社会で女性に対する
偏見が多くあり並大抵の苦労ではありませんでした。でも何事も
チャレンジしなければ前には進みませんので、これからも意欲的に
挑戦し頑張ってやっていきたいと思っています。


<プロフィール>

1945年8月   京都市北区にて生まれる

1952年〜    大阪府高槻市在住18年

         大阪市立島上高等学校卒業

         東京デザイン専門学校 大阪校建築学科卒業

         建築デザイン研究所 3年勤務

         椛蝸ム組 大阪本社 2年勤務
1970年     結婚のため退社 岐阜県に移住

1986年     マーケティング・マネージメントセンター

         (経営コンサルタント会社) 2年勤務





1989年1月   独立して人材派遣業ベル(BelL)を創業

1992年10月   個人事業主として労働者派遣認可を取得

1993年4月   法人化し有限会社ベルを設立

1995年12月   株式会社ベルに組織変更、社屋新築

2000年7月   可児営業所開設

2003年11月   社長を長男と交代し、代表取締役会長に就任

(株)ベルの本社
各務原市緑苑中1丁目174
TEL:0583-70-4317
FAX:0583-70-6629




いろんな業種の仕事で活躍しているスタッフたちはいつも明るく元気です。







8『問題行動と子供の脳
脳と子供の育ち普及協会 会長 浅野幸恵
私は各務原市内に住む兼業農家の主婦です。
十年以上も子供の心の問題と
脳について研究し、
2冊の本を築地書館
より出版しました。
「脳から治す心のトラブルと不登校(もう不登校は怖くない)」、
「問題行動と子供の脳(赤ちゃんの脳を守る)」

子供たちとお母さんが苦しんでいます。ほんとうの原因が判れば子供たちを救える、と考えました。こんなに経済的に豊かな日本で、大勢の子供たちが自閉症等の発達障害、不登校、引きこもる青年、少年犯罪、虐待、多動児などの心の問題で苦しんでいます。皆、原因が不明なので予防も治療もできずに増加するばかり
です。最近になり本当の原因が判り始めました。

赤ちゃんにテレビ、ビデオ、CD等の機会音が長い時間届いていることが関与している可能性があります。あまりに普通の生活なので信じられないかもしれませんね。

今、言葉の発達の遅れている子供が激増しています。ほとんど言葉が無い幼児が自閉症ですが言葉の発達が遅れ、2、3歳に話し始めた子供の中に、その後に社会性の障害が残ることがあります。社会性の障害が不登校や成人して引きこもる青年、切れやすい青少年、
人間関係にトラブルを起こしやすい生きにくさを持ちます。

 


 ではどうしてテレビ等から長い時間音が聞こえていると赤ちゃんに悪いのでしょうか??

文部科学省はメディアの影響を含む子供の脳の成長について、今後10年間乳幼児1万人の追跡調査をする計画だそうです。(なんて呑気なことを!!)その間にあなたの子供や孫が言葉が話せなかったり、多動児に育つかもしれません。成長して不登校や引きこもり青年になってもいいですか?



 日本の科学と医学で、子供たちの事に真剣に取り組めば1年以内で真実を解明できるはずです。岩佐京子カウンセラーや片岡直樹小児科教授が実際に援助して回復しているという事実があります。日本というのは不思議な国ですね。

 だから私は子供たちの幸せを願って本を出版しました。そして脳と子供の育ち普及協会を作って日本中に伝えようと仲間を募りました。

今、この文章を読んでくださっている方、あなたの情熱を子供たちのために燃やしてくださいませんか?通信や講演会のパソコンができて手助けしてくださる方もお願いします。



「現在の子供たちの根には脳がある」と犯罪心理学者が書いています。

子供たちのために何ができるか考えて実行しましょう!!






bV『手近な素材から芸術を
 押し花アーティスト 水野 明美


子育てが終わり、自分の時間が持てるようになったら、ちぎり絵をやりたかった。
そんな折、「押し花」の展示会を見て、その魅力にとりつかれた。

自宅の庭は日本庭園だったが、押し花に適した花をたくさん植えた。
押し花にする材料は 庭先にある草花で充分間に合うようになった。

何年か夢中でやり、1997年に押し花アーテイストのインストラクターの資格を得た。


 プロフィール

 1997年 インストラクター資格取得
  1999年 世界押花デザイン展
       リサイクルメールカード
       コンテスト佳作入賞
    
 2000年  第6回「花いっぱい大賞」
       押し花はがきコンクール佳作
 2001年 世界押花絵画展JAPAN2001
       コンクール入選

           世界おし葉ポストカード 入選
           うつくしま未来博全国押し花
       コンクール入選
 2002年 きずな大賞 特別賞 

・・・などなど、多くの入賞、入選を重ねておられる。




「ブライダルブーケ」

 


夫が単身赴任。その地をたびたび訪れ、休日には二人で上高地、美ヶ原、安曇野などに出かけた。
 自然豊かな風景の中で 目に見える色や形、自然の匂いや香り、ものの手触り、つまり 
五感のすべてに自然の美を求めて構図を練る。

遠近感を出したり、 花の種類を考えたりと、一番悩むところだが、また至福のひとときでもある。


「自然との共生」

押し花には、花のほかに 木の皮、
草花の根っこ、野菜・果物も使う。

また、背景とする 風景のバックには、
正絹の布類、草木染めの布、和紙なども使う。

 配材・配色の妙、意外性は限りなく、
創る楽しみは広がります。



 もともと、会社勤めで(そして今も)、趣味で始めたが、地域の人たちから教えて欲しいという声もあり、自宅で教室も開かれている。 
人に教える、難しさを実感しているところ。


人それぞれの感性も関係しますが、何度もなんども回数を重ね、いろいろな作品を見て、どんどん自分のものにしようとする人は いい作品ができるようです。
また、結婚式のブーケ、還暦祝の花を記念に残しておきたいという人のために「押し花」にすることもされている。

 水野明美さんは 押し花を少しでも多くのひとに知って欲しいという夢があり、
そのために半年に一度無料体験の講座も開かれている。

 いそがしい日々を過ごすなかで輝いている人である。


                       (紹介者 : CT





bU『おかみさんは家業の守り手
   八郎鮨   今尾 ハツ子


東京・浅草の天ぷら屋で育った。
 年ごろになったころ、名古屋のゴルフ場で知り合った男性が、寿司職人でした。
スポーツが好きという共通の話題がある。家業と同じ食べもの商売やったら食べることに
不自由しない、本音もあって嫁入りを決めたという。


昭和54年、岐南町に、小さな寿司店を持った。
従業員を含め4〜5人で営業する、小さな店だ。

カウンターのタネケースには、いろいろな魚が並び、
四季の移り変わりが楽しい。

旬の食材にこだわり、主人の寿司職人の味と技の調和を大切に、
腕をふるったおかげで、幸い、良いお客様に恵まれ、順調でした。


5〜6年ほど経ったころ、もう少し大きい店をと考えた。
 ご主人は板前に専念し、おかみさんは経営を、と夫婦の役割分担がはっきりしている。 
店を造る相談は、夫よりも先に、会計士や銀行に相談し、どんどん進めていった。 
このころはすでに妻の実力を信頼されていたから、できたことでしょう。
でも、ご主人のほうが一枚上手のように感じた。

昭和60年、近くの岐阜市石長町名岐バイパス沿いに三階建ての「八郎鮨」は開店した。
 
店の特徴は、旬のネタの新鮮さはもとより、その旨味を引き立たせる仕込みと器(うつわ)にある。
彩り豊かな料理を楽しんでいただけるように、と工夫している。

有限会社八郎鮨の取締役兼おかみさんは、「接客業はむつかしいもの」と言われる。
時代の移り変わりに、敏感でなければならない。

従業員の人間関係や 営業方針にも気を配らねばならない。
 おかみ稼業は、心配りが繊細でないと、つとまらない。
一方で、一生懸命やれば、お客様は、必ず応えていただける。
また、若い従業員がどんどん成長していくのを見ることは楽しいことだ。

おかみさんのもうひとつの仕事は、岐阜県中小企業家同友会の女性部会の会長さん。この会は、女性で経営にたずさわる人たちの集まりである。
おかみさんは、経営の話しになると、目がきらきらと輝やき、話しがはずむ。
 控え目ななかにユーモアを織りこんだ会話は、部会のメンバーからとても信頼されている、とか。
彼女の人徳である。


毎日が多忙である。
いまのところ、楽しみは夫と一緒に、器を探しにあちこち見て歩いたり、絵を描いたりすること。
いまはむかし、本当は、ちいさな店でおいしい家庭料理を作って、お客様に喜んでもらえる、小さなちいさなお店を開くのが夢でした。

おかみさんが輝やいて存在している限り、八郎鮨は飛躍がつづいていくでしょう。


                                               ( 紹介者 : C/T )






bT『ゆったりと暮らす
      介護サービスを!』
グループホーム らく
アフターケアハウス らく   代表 一楽 直子


徳島に生まれた。 両親のすすめで 高校は岐阜県の全寮制の学校でした。
勉強もしつけも非常に厳しかった。 大学は徳島に帰り、管理栄養士の資格をとった。 
親は 女の子の就職を認めなかった。 父親は家業も順調であり、公職もありで、とにかく
「家」から離れたかった。
 そんな時、高校の同級生との結婚話があり、名古屋で生活する
ことになった。


子どもも授かったが、とにかく仕事がしたくて保母
の資格もとった。
小さな部屋を借りて、託児所を始
めた。そのころから
 働きたい主婦がどんどん出て
きた社会環境の変化に伴ない、託児所は盛況でした。
15年ほど経ったころ、思いがけない事故で夫が亡くなる。
託児所も閉じることにした。

持ち前の明るい性格と4人の息子たちのおかげで 哀しみもいつか 乗り越えることができた。
いつかは 老人の生き方に関する仕事をしたいという夢をいだきつつ 生活(くらし)ていた。 人生を 時計でいえば 午後2時ごろ。 まだまだ日が沈むには間がある。 ここでもうひと働きしようと思った。 
幸い三男が老人福祉に関心があり 手伝ってくれるという。

介護保険指定事業者として 平成12年「アフターケアハウス らく」を立ち上げることができた。
 
むかしから馴染んだ生活様式に近い 普通の民家を借りた。 これは多くのお年寄りにとって より快適で安心できるもの。
 アフターケアハウスの利用者は、ひとり暮らしか、家族がいても家族が仕事にでかけ日中は
ひとりという人がほとんどだ。 ケアハウスから帰宅後のひとりの生活が
 危なっかしい場面に出遭うなど そのありさまにこころを痛めた。

ケアハウスを やってみてできれば もうひとり増やすというように 少しづつ自信をつけて、14年9月に「グループホーム らく」を立ち上げて、これもあわせてやることになった。

ケアハウスを やってみてできれば もうひとり増やすというように 少しづつ自信をつけて、
14年9月に「グループホーム
 らく」を立ち上げて、これもあわせてやることになった。
 めざしているのは 小人数、家族的でゆったりとした自由なくらし。 仲間と楽しく助け合い、笑いのある暮らし。
さまざまな生き方をしてきた人たちだから、その個性を尊重しつつ 介護の手伝いをできたら良い、
ということでお手伝いしている。 大きな苦労はまだない。

日々のケアで大切に思っていて実行していること・・・。

個人を尊重し 得意な分野を伸ばして 自分自身の存在感を与えてあげるように、
 自信をもてるようにしている。

常に自然に親しみ、季節感を失わないように 外へ行く機会を多く持ち、刺激を受ける。

 地域行事への参加。 地域のかたの畑を借りて、地域のかたと一緒に 自然を楽しむ。

 以上のように生活しているが、家族のかたや職員が「○○さんはここへきてから よく笑うように
なったわね」とか、「仲間同士で会話ができる」などと、良い方向に向いてきた話を聞くのが一番
うれしい。
 いま一番やりがいを感ずる時です。

両親は徳島で元気に生活している。 平凡な言い方だけど、親から離れて生活してみて、やっと
親心がわかるようになった。
 いまこうして少しでも社会に役立つことができるのは、自分の親が
人生の最初に学びを与えてくれたから。
 生涯で最大の学びを与えてくれた存在であったと 気が
ついたからだと思う。

「子どもでも老人でも ひととの生き生きとした交流を見つめることが 私の好きなことであり、
生きがいでしょうか」とも語られる。

                                                   ( 紹介者 : C/T )








bS『もの創り大好き!!』
造形作家  服部伊津美


山形県に生まれ育ち、大学は東京の武蔵野美術大学
(空間デザイン科)に進んだ。
結婚して、豊田市に住むようになった。


三人目の末っ子が小学校に入学した頃、
身体に不調があり、病院で診てもらった。

「どこも悪いところは有りませんよ。
好きなこと、打ち込めることをしたら、
治りますよ」と言われた。

娘にピアノを教えてもらう代わりに、
ピアノの先生の子に絵を教えるという
交換トレード状態から始まった「こどもの
造形教室」も、15年続いている。

アトリエでは工作をメインに教えている。
季節感や伝統を盛り込みながら、楽しく
作れるものを、と
 工夫している。
こどもたちの笑顔を見ているのが楽しい。




絵手紙を愉しんでいるのを見て、「教えて欲しい」といわれ、3年前から講師もしている。
絵と言葉を考えるのが大好き!!




陶芸歴は14年。 やり始めから どんぶりに耳を付けたり、尻尾が付いた茶わんができたりと、
あまりにも個性的で、陶芸の師匠は指導もできなかったようだ。

服部さんは いつの頃からか彫刻家ヘンリームアをこころの師匠として尊敬している。
それでいつも どこから見ても 空気と作るものの際(きわ)の輪郭線が心地よく見えるように
と気をつけている。

主に、造形美あふれた食器、動物を擬人化したフィギュア(造形)の世界。
フィギュア。――これは全くモデルも無く、服部さん独自の創造の世界:オリジナルの作品である。

窯から出てきたばかりのカップを見て、思ったより いい色にできたぁ、うれしい! 
と大喜びであった。

カップであれ、フィギュアであっても、どれも 歌を唄っているところから「土歌展 どかてん
と名付けて、 6年前から 2年に一度 個展を開くようになった。

 ※ 最近の個展:『 土歌展 どかてん  ―猫もどき祭りー 』
      2003.10.10.〜10.28. 於 三好町

 

 擬人化した動物の作品には 一つひとつに タイトル
がある。
  本人は「詩がつく」と言われるが、その詩と動物の表情がピッタリで、
 思わず笑ってしまう。


『 自分が抱えられる分だけ
 持てばいいんだョネ 』
 『 なめたらあかん!!』 『 この元気玉 あげるよー 』


 未知の美しいものを取り込む、柔らかなこころをもっていないと、これだけの創造の世界を切りひらいていけない。

 きれいな顔、姿で、すがすがしいさわやかな方。 その言葉は歯切れ良く、「父ちゃんのごはんは ちゃんと作ってるよ」と、ポーンと返ってくる。

 ご主人、三人のお嬢さんたちもあたたかく見守ってくれている。

 こどもの造形教室、絵手紙教室も、オリジナルな作陶も、自分の中では全部つながっているので、
毎日が楽しくって ワクワクしている。

 かって身体の心配で医者を訪ねたなんて、今では誰も信じられない。
自律神経失調症(あとになってわかったのだが)を患って以来、ライフワークになるようなものを、
特にクリエイテイブなこと、ものを創ることを始められ、主婦以外の肩書きを持っていきいきと
生活されている。


                    ( 紹介者 : C/T )





3『趣味から 布ギャラリー経営へ』
布ギャラリー 店長 三輪知香子

いつの頃からか、染物と織物に魅せられていた。
裂き織り(さきおり)を習い、古い布との思いもよらぬ出遭いに感動し、どんどんその世界に入り込んでいった。
子育てが終わり、6年ほど前、夢であった、小さな ちいさな店を持った。
陶器、アクセサリー、布で作った小物、和服から洋服に仕立てるオーダーメイドの店「ブルー藍」を ひとりで コツコツと商った。

夫はサラリーマン。 妻の楽しそうな、生き生きと働いている姿を見ていた。
その頃、老いた両親も 畑をもてあましていたので、土地もある。
定年には早いが 会社を辞め、おもしろい店を、と考えた。
ニンジン畑をならして、店造りをした。
雰囲気づくりに 民家古材家具にこだわり、あつめて 揃えた。
妻は、古布から洋服を仕立てることがブームにな
ったことで、古い和服を個人から仕入れ、そのまま販売したり、仕立て直ししたりを 主にした。

ご主人が企画と経営を受け持ち、ギャラリー、カルチャー教室も併設し、手作り品の販売も と拡がった。
“創作広場”と名付け、2002年9月、二人の夢が実現し、
「布ギャラリー・Blue藍」は誕生した。

この店の特徴が 二つある。
一、 会員制(会員特典の供与)。
二、 年に四回 イベントを行なう。

    いままでに 信楽にバスツアー、 京都骨董祭ツアー、
    オリジナルファッションショー、 そば打ち大会 など
    今後も ブルー藍ならでは、の イベントを行ない、
    皆様に喜んでもらえたら うれしいそうです。
また、この地域の、創作文化の向上と発展のために、お役に立ちたいと、チャリテイバザーを開き、収益金の一部で、車いすを寄付されたそうです。
少しのてらいもなく、ごく平凡なやさしい 三人の子のお母さんでもある。
苦労は、しいて言えば、お客さまに 飽きられないように、常に勉強し 工夫を重ねていなければならないこと。
父母の形見であったりする、古い和服が、 すてきな古布服に変わって、大喜びされる顔を見ることに、
やりがいを感じる。
カルチャー教室では、織りと染めをはじめ、とんぼ玉、パッチワークなど 14教室が開かれている。
ギャラリーも、半年先まで 予約済みとか。
店内は 女性の夢をかなえてくれる “和”の雑貨に囲まれて、いつもお客さんが 訪れている。

夫も妻も  まだ五十代。
「夢」は 続く。
いまの店を もっともっと 充実させたい。
できたら、いつか 支店が持てたら・・・、と。

                             (紹介者 : CT




bQ『創作・小幅掛け軸の世界を拓く』
表装インストラクター 荒木 行栄


 「表装」と言えば、日本古来の伝統的な掛け軸を思い浮かべます。荒木さんのそれは床の間の有無は関係ない。
「小幅掛け軸」は趣味の遊び心を満たすもので、床の間でも、洋間でも玄関廊下でも、わずかな空間があれば、楽しめるものです。

 荒木さんが表装に興味をもつようになったきっかけは、20年ほど前、茶の心・表装の奥深さを教えてもらっているうちに、いつか自分もやってみたいと思いつづけていた。

 その後10年も経って、50才代半ばになり、やっと岡崎市にある愛知県工芸訓練校・表装部門に入学した。ここの学生は表装関係の仕事をしている人が多く、表具店の後継ぎ達が大部分です。

 プロを養成するところですから、先生の教えは厳しく修業に辛抱できない人もでてきます。掛け軸をまっすぐ掛けるためには、まっすぐ切ることが大切。ひたすらまっすぐに・・・。そのために包丁で切る。カッターナイフではなく。これがなかなかできない。ほかの学生は20代30代が多く、職場ですでにやってきている人がほとんどで、彼女は叱られてばかりでみんなの足手まといでした。真っ先に辞めていくと思われていた。家で つい愚痴ると、夫の「教えてもらっているという姿勢を先ず持て」という励ましに、3年間支えられて続いていきました。

 訓練校卒業した後、自分ひとりで作品をつくり、友人知人に差し上げたりして楽しめばいいと思っていた。ところが、ライフデザイン研究所所長の佐藤美恵子先生が『荒木さん 教室をもたれたら』というひと言で、これまた、あれよあれよという間に表装教室「一樹会」ができあがってしまいました。

 その昔、表装を学ぶきっかけをつくっていただいた先生が、家庭用のアイロンでできる熱接着とカッターナイフで仕上げる方法を考案されていた。おかげで素人でもいろいろと楽しめる「自分で創る掛け軸」がつくれるようになりました。

 たとえ身近に床の間が無くても、自分の好きな布、配色で創る楽しみは無限のようです。もちろん、「基礎をみっちり学び、さらにセンスもよく、真っ直ぐなこころを持つ」荒木行栄先生の指導があってのこと。

荒木さんが表装つくりにかかわって10年。無我夢中でした。「これとこれの組み合わせはどうかしら」「あらっ!!いいわねぇ!!」。「これをここへもってくればステキね、これでいきましょう!!」と、色合わせは、布との相談。裏打ちという仕事によって、想像を超える発見があり、これがたまらない魅力である。

最近、時間の余裕がいくらかとれるようになった夫から「これからは僕ができることは何でもしてあげる」と言ってくれる、今日もご飯だけは炊いておいて、と頼んできたわ、とうれしそう。

 

                      (紹介者 : CT



1『マイナスからの再出発』
株式会社フラント工業
代表取締役 名達早貴子

名達さんは1936年生まれの女性経営者です。

私が知り合ったのは10年ほど前ですが
中小企業家同友会という経営者が勉強をする
会でお目にかかったのが最初です。

の当時は大栄工業株式会社の常務取締役
という立場で経営手腕を発揮されていました。
人生においても経営においても大先輩ですが
とても親切で気さくにお付き合いさせていただき
たくさんのことを教えていただいていました。


ところが6年前突然大栄工業さんが倒産したというニュースが飛び込んできました。
一瞬耳を疑いましたがお聞きして見ると良くある連鎖倒産だったのです。

会社の整理、取引先への謝罪、社員の再就職先の確保等東奔西走の日々だったと
後になって伺いました。
又、精神的にもずいぶん大変で、自殺する人の気持ちが良く分かったということも伺いました。
会社整理の残務をこなしながら1年後、お得意様のご要望、資金援助の申し出、離散
した社員の復帰希望などが整い、株式会社フラント工業として見事再建を実現されたのです。

          


大きな苦難に遭遇しながらも、このお年でどこにそんなエネルギーが有るのかと不思議
ですが、お話を伺うときに必ず感じるのはいつも周りの方を気遣っているということです。
自分中心ではなく周りの方への心配りが彼女の原動力になっているのではないかと
感じます。そういった名達さんの人柄だからこそ周りの方が援助の手を差し伸べて
下さったのだと思います。

そして忘れてならないのはご主人や二人の息子さんたち家族の方々の温かいご支援
ではないでしょうか?
会社の倒産と共に自己破産という苦しい立場となってすべてを失ったとき、精神的
にも物理的にも支えてくださったのが身近なご家族だったと伺いました。

家庭においては主婦であり、母でありながら、ビジネスの世界では社員の皆さんの
ことを第一に考え、忙しいときは自ら工場の現場作業を手伝い、商工会議所やその他
団体の役員も引き受け、毎日忙しく元気に輝いていらっしゃる名達さんです。

そんな彼女を皆さんにご紹介すると共に、私も少しでも
見習って元気で輝いて生きていきたいと思います。

                                                 紹介者:H/N